宗派と本山
長田区仏教会所属寺院に関係する祖師や本山の説明です。タイトルをクリックすると、詳しい解説が表示されます。
【真宗(浄土真宗)】
しかし一切が平等に救われる道を見いだせず29歳で下山。生死(まよい)を超えるべき道を求めて京都六角堂に百日参籠をしたところ、95日目の暁に聖徳太子(救世観音)の夢告を受け、東山吉水の法然上人の門を叩きます。そこで「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という本願念仏の平等の救いに出遇い、法然門下「綽空」として念仏の道を歩む事となります。
32歳の時、師法然より主著『選択集』と真影の伝授をうけ「善信」と改名しますが、35歳の時(1207)、法然門下を襲った念仏弾圧によって、親鸞聖人も越後(新潟県)に配流となられました。
強制的に還俗させられた聖人は、ここを以て僧に非ず、しかし俗に非ずと「非僧非俗」を表明し、「愚禿釈親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名のるに至ります。これは当時半僧半俗といった僧侶まがいの俗聖に対して、世俗の生活の中にありながら世俗に染まらない、真の仏弟子としての念仏者の生き方を示したものでした。(但し赦免後、僧侶として房号を名のる時は善信房親鸞といいました。)
また恵信尼(えしんに)と堂々と結婚するなど、破戒のものが本願力によって仏道を歩む人生となる事を、自らの歩みを通して示していかれました。それはとりもなおさず、善悪賢愚のへだてなく、どんな者も平等に、念仏によって救われていくということを顕していました。
流罪を解かれたあと、42歳の時、関東の常陸(茨城県)に移って約20年間布教され、52歳頃から主著『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を撰述、生涯改訂を続けられました。62歳頃京都に帰られた後は主著の改訂、様々な著作や和讃の制作など、著述活動に専念され、弘長二年(1262)11月28日(現在の暦では1月16日)、90歳の生涯を遂げられました。なお、明治九年には見真大師の大師号を追贈されています。
江戸時代に四回に及ぶ火災をうけ、両堂の再建は並大抵ではありませんでした。特に幕末の戦乱のさなか、元治元年の蛤御門の変により堂宇を焼失し、その後の政情不安のため十五年を経て、明治十三年より十有余年を要して明治二十八年に完成し現在に至ります。
世界的木造建築の御影堂や明治の代表的建築の阿弥陀堂の建立に当たり、巨大な用材搬出の際に引き綱が切れて死傷者も出ましたが、諸国の女性が御恩報謝の好機にと大切な黒髪を切って編んだ毛綱を奉納。難工事も無事完成させました。
当初真宗開闢の根本道場という意味で、順徳天皇より「興隆正法寺」の号を賜り、略して興正寺と呼ばれていました。七代了源上人は光明本尊・絵系図・門弟等交名などを用いて、西日本一帯の布教に力を入れ、山科より寺基を汁谷(しるたに・現在の京都国立博物館)に移しました。足利尊氏より寄進された土地に建立した堂宇には、後醍醐天皇より「阿弥陀佛光寺」の寺号を賜り、佛光寺と呼ばれるようになりました。その後寺基は豊臣秀吉の大仏殿建立のため懇請されて現在の四条烏丸のあたりに移転しましたが、度重なる戦乱や火災に遭い、現在の本堂は明治時代の代表的建築となっています。
本堂の阿弥陀堂には了源時代より伝わる本尊の阿弥陀如来の他、鎌倉期の聖徳太子像や、珍しい木像の七高僧像をご安置し、大師堂(だいしどう)には宗祖親鸞聖人の御真影と中興了源上人のお木像をご安置しています。また枝垂れ桜が有名で、毎年美しい花を咲かせています。
第七世了源上人は、元応弐年、寺基を渋谷に移され、ご本尊が光明を放った霊顕により、後醍醐天皇より「阿弥陀仏光寺」の勅号を賜り、以来一山両号を用いたのであります。
その後、文明十三年、第十四世蓮教上人は本願寺の蓮如上人と歩みを共にし、佛光寺を弟に譲り、再び山科の地に多くの門徒と共に興正寺を興しました。その後は本願寺と歩調を合わせ、度重なる移転にも常に行動を同じくしています。桃山時代、現在の地へ移転し、堂舎が隣接して建てられているのも本願寺との深い関係を示しています。
また一方で興正寺には本山として独立しようとする気運も根強く、明治九年、第二十七世本寂上人により興正寺は独立した一派の本山となります。
明治三十五年、不慮の火災により、本堂その他ほとんどを消失しましたが、第二十八世本常上人は直ちに再建の工を起こされ、明治四十五年、両堂大伽藍が建立され、現在に至っています。
山科に興正寺が建立されてより、ここに七百八十余年、幾多の歴史を重ねながらも法灯は連綿と今日に至っています。
浄土真宗本願寺派は京都・西本願寺を本山とし、親鸞聖人(1173-1262)を宗祖と仰ぐ、お念仏の教団です。親鸞聖人没後、娘の覚心尼さまが京都・北大谷にご遺骨を納められ、墓所を築かれたことが始まりとされています。その後、東山五条に廟堂が建立され、現在は大谷本廟となっています。
三代目・覚如上人(1270-1351)の時代には『報恩講式』や『親鸞上人伝絵』などが作成され、本願寺の礎が築かれました。その後、八代目・蓮如上人(1415-1499)が数多くの『御文章』(ごぶんしょう:お手紙)を作成され、親鸞聖人が説かれた「本願他力」の教えをわかりやすく説かれました。この教えは瞬く間に全国の民衆に広まり、蓮如上人は本願寺・中興の祖と仰がれるようになりました。
しかし、その後は戦国時代となり、本願寺も各地を転々と致します。現在地(京都・七条堀川)は、十一代目・顕如上人 (1543〜1592)の時代に豊臣秀吉から与えられたものですが、関ヶ原の戦い(1600)で政権を握った徳川家康によって教如上人(顕如上人の長男)が七条烏丸の地を与えられ、いわゆる東西本願寺に分かれることになりました。
現在の本願寺は寺院数1万ヶ寺、門徒数1千万人を数える大教団となりました。北米、南米、欧州など海外にも多数の開教拠点があり、親鸞聖人の教えはますます多くの人々のよりどころとなって、今に受け継がれています。
【浄土宗】
しかし、勢至丸9歳の時、父時国公は当時対立関係にあった勢力の夜襲を受け瀕死の重傷を負います。父は、勢至丸を枕元に呼び、「敵を恨んではいけない。もしお前が仇討ちすれば、その相手がお前を仇と狙い、その恨みは尽きることがない。そなたは僧となって私の菩提を弔い、自らの解脱を求めなさい」と遺言されます。亡き父の遺言に従い、15歳の時比叡山で出家された法然上人は、その才を認められ、周囲から「智慧第一の法然房」と称賛されました。しかし法然上人は、煩悩を自力で無くすことができない「罪悪生死の凡夫」という自覚を持ち続けておられました。
凡夫とは、煩悩を抱え、苦しみや迷いを持った者の意で、煩悩とは心身を煩わし悩ます心の働きのことです。法然上人は自らを厳しく見つめながら、父との約束を果たすため、来る日も来る日も経典をひも解き、救いの道を探し求められます。そして承安5年(1175)の春、「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名付く。彼の佛の願に順ずるが故に(いかなる時でも南無阿弥陀仏と念ずる事が一番の行である。それが阿弥陀仏の願いに適うからである)」という、唐代の僧・善導大師による一文を見出されました。
自力では煩悩を消し去ることのできない凡夫でも、南無阿弥陀仏と称えれば、阿弥陀仏の本願力によって必ず救われる。つまり、極楽浄土に往生が叶うことを確信されたのです。以来、為政者から民衆、さらには盗賊に身をやつす者に至るまで、分け隔てなく、阿弥陀仏の本願念仏を説かれ、その教えは瞬く間に広がりました。 晩年は度重なる法難を受け四国に配流されることになりますが、法然上人は「お念仏の教えを広める好機である」と受け止め、その道中で教えを請う人々にお念仏を勧められたのです。
建暦元年(1211)11月に京へ戻ることが許され、多くの人々が喜びをもって迎えられましたが、疲れから病に伏されます。それでも常に「南無阿弥陀仏」と称える声は途切れることがありませんでした。ある日、門弟の一人が「法然上人ゆかりの場所をどこに構えればよいでしょうか」と尋ねたところ、「念仏の声する所は、みな我が遺跡(ゆいせき)である」と答えられ、念仏は場所も時も隔てるものはないことを改めて示されたのでした。
亡くなられる2日前には、生涯をかけて示された教えの真髄を、弟子の請いに応えて『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』として自ら記されました。そして建暦2年(1212)1月25日正午、お念仏を称えつつ往生の素懐を遂げられました。御年80歳。その場所は、現在の知恩院勢至堂付近であったと伝えられています。
最初は地名にちなんで吉水御坊もしくは大谷禅坊と呼ばれておりました。そのころの建物は嘉禄3年(1227)に焼け落ち文暦元年(1234)に仏殿、御影堂、総門が建てられました。
この時に知恩院大谷寺と名付けられました。その後も火災や応仁の乱の戦災で消失するもその度に再興されます。
慶長8年(1603)に徳川家康が生母を知恩院で弔い、永代菩提所として寺領を寄進したことにより現在の境内地くらいまで広がりました。寛永10年(1633)の火災で三門、経蔵、勢至堂を残し全焼するも徳川家光により寛永16年(1639)ほぼ元通りになります。それから長い年月をへて大方丈、黒門、集会堂、阿弥陀堂が再建され現在のようになりました。
【真言宗】
延暦23年6月、大師31歳の時、遣唐使として唐に渡り、2年間で恵果阿闍梨より密教を学び、真言第8祖となり帰朝、嵯峨帝の知遇をえて、高野山、東寺を賜り、また四国88ヶ所を開き、密教弘通に精進されました。
日本で初めての私学、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設けて庶民に門戸を開き、また、最初の字書、篆隷万象儀(てんれいまんしょうぎ)を作り、日本の文化面にも力を注がれました。承和2年3月21日、高野山奥の院にご入定(にゅうじょう)、延喜21年に醍醐帝より弘法大師の諡号(しごう)を贈られました。
「高野山真言宗(こうやさんしんごんしゅう)は、真言宗の宗派。総本山は高野山金剛峯寺。別称として、高野宗・高野派。平安時代に空海が唐・長安の青龍寺で恵果から密教を学び、日本に帰国して開いたことに始まる。
寺号の金剛峯寺の金剛峯の名称は「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祗経」(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)の最初の3文字「金剛峯」を引用して、空海が名付けた。
高野山(和歌山県伊都郡高野町)は816年(弘仁7年)に嵯峨天皇より空海に下賜された。それ以後、高野山内に伽藍・諸堂を整備して、修法と門弟の教育を行った。1593年(文禄2年)に豊臣秀吉が母・大政所の追善菩提のために高野山に建立した青厳寺と1590年(天正18年)に木食応其が建立した興山寺を1869年(明治2年)に合併して、寺号を金剛峯寺とした。青厳寺のとなりに興山寺があった。青厳寺は、建立当初は寺号を剃髪寺と称していた。興山寺は後陽成天皇より「興山寺」の勅額が下賜され、勅願寺であった。
合併以前は、寺号の金剛峯寺は高野山全体を指す名称であった。現在のように特定の寺院を指して寺号とすることはなかった。現在の金剛峯寺の建物は1863年(文久3年)に建立され、高野山真言宗座主の住居としても使用されている。
明治時代以降、政府の宗教政策から、他の真言宗宗派(真言宗御室派(総本山仁和寺)・真言宗大覚寺派(大本山大覚寺)など)と合同した古義真言宗に属し、古義真言宗総本山となる。のちに分派・合同した。1872年(明治5年)、女人禁制が解かれる。」
823年、弘法大師は嵯峨天皇から東寺を賜って真言宗の根本道場とし、その寺号を教王護国寺としました。現在の主な伽藍は室町時代から江戸時代にかけてのもので、金堂・大師堂などが国宝に指定されているほか、質量ともに桁外れの密教美術があり、密教文化の宝庫となっています。なかでも講堂に並ぶ二十一体の仏像は素晴らしく、立体曼荼羅世界を見事に具現しています。
毎月21日は「弘法さんの縁日」として常に大勢の参拝者が集まります。大師信仰は多くの人の心に生き続けています。
宇多天皇はその後出家して日本で最初の法皇になられたとされ、仁和寺伽藍の西南に「御室(おむろ)」と呼ばれる僧坊を建てて住まわれたので、仁和寺は「御室御所(おむろごしょ)」と呼ばれました。その後、皇族や貴族の保護を受け、皇族出身の方が門跡(住職)を務める門跡寺院の筆頭として江戸時代末期まで続きました。
第5世門跡覚性(かくしょう)法親王の仁安2年(1167)に日本総法務に任じられ、日本仏教すべての宗派における各本山の最上位に置かれました。その後の皇族出身門跡も総法務の宮に任じられ、威勢を誇りました。第6世門跡守覚(しゅかく)法親王の時に最も寺勢が栄え、東は金閣寺、南は花園駅、西は広沢池の周辺を含む範囲の広大な寺領を誇りました。
その後、室町時代・応仁2年(1468)、応仁の乱の兵火で堂宇は全焼し、双ヶ丘の西側に残った堂で教えを継承してきました。足利・織田・豊臣氏の援助でも復興ができず、江戸時代・寛永11年(1634)第21世覚深(かくしん)法親王の代に徳川家光公が幕府より24万両、並びに皇居を改造した際の旧紫宸殿(現在の金堂)・清涼殿(大師堂)を下賜され、現在の伽藍が整えられました。慶応3年(1867)、第30世純仁(じゅんにん)法親王が小松宮彰仁親王として還俗されて皇族の門跡ではなくなります。
文学では徒然草に登場する「仁和寺にある法師」などで知られ、京都観光では京都で一番遅咲きの桜として知られる「御室桜」なども有名です。
「真言宗山階派の歴史は勧修寺の開創に始まる。勧修寺は醍醐天皇国母藤原胤子の発願により、外戚宮道氏の邸宅を伽藍として、承俊を開山として建立された。905年(延喜5年)には定額寺、年分度者を置くことを許されて、真言宗・三論宗の修学・修行道場として知られていた。918年(延喜18年)には、勧修寺に長吏(住職・門跡の通称)を置いて済高が長吏に任じられたころから、勧修寺が隆盛を極める契機となった。皇室の保護を受け、また、真言宗事相に通じた名僧を輩出した。勧修寺7世寛信が勧修寺を本拠として勧修寺流を開いた。
鎌倉時代末期には、後伏見天皇第7皇子寛胤法親王が勧修寺に入寺して15世長吏(門跡)に就任以降は、明治維新までは、代々の長吏には、皇室より親王を迎えて、宮門跡が補されていた。32世済範法親王(複飾して山階宮晃親王)が最後の宮門跡となった。
室町時代、1470年(文明2年)には、兵火により伽藍を焼失。後に復興を果たした。しかし、豊臣秀吉の命令を拒否したため、寺領300石に減封された。さらに伏見城築城のために境内地に新たに道路を建設され、山の破壊、諸堂移転、氷室池を埋め立てられるに至った。
江戸時代、寛永年間には、朝廷より御所の建物の下賜があり、これ以降、伽藍の再建が本格的に始まった。1682年(天和2年)、霊元天皇第1皇子済深親王が29世門跡に補され、寺領は1012石に加増し、経済的な基盤も確立した。
明治時代には、1879年(明治12年)東寺の傘下に入って定額寺。1986年(明治19)年、長者候補寺院に選出、事相本山となった。1901年(明治34年)、真言宗古義派の四派聨合に際しては東寺とともに参画したが、1907年(明治40年)には、独立して真言宗山階派を公称した。第二次世界大戦のさなか、日本政府の宗教政策により、真言宗の古義・新義両派を合同して大真言宗に組み込まれたが、戦後に独立し、1952年(昭和27年)、真言宗山階派となり、現在に至っている。」
【天台宗】
中国の天台大師が、お釈迦様御一代の教えのうち、法華経を中心として天台宗をお開きになり、その後伝教大師が中国に渡られ、これを伝えて延暦25年(806)1月26日、日本の天台宗を開かれました。天台宗はこの法華経に基づく一乗の教えを根本として密教、禅法、戒法、念仏などをその実践の法門としており、鎌倉時代に日本に誕生した各宗派の祖師方も、比叡山で学ばれました。
俗に朝題目、夕念仏とも称されるごとく、法華経の諸法実相(全てのものは、みな仏そのものの現れである)の立場に立って、すべての大乗経典を敬い読誦いたします。
「延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。延暦寺の名より比叡山、また叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧侶最澄(767年 – 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括する。
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称である。延暦7年(788年)に最澄が一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであった。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。」
【臨済宗(禅宗)】
臨済禅師は戦乱の唐の時代にあって、将軍が部下を指揮するがごとく命がけで修行僧を指導されたので、「臨済将軍」とも呼ばれました。また、当時最も自由で生き生きとした禅風をもって知られ、鋭い禅風を挙揚したことが、禅師の言行を録した『臨済慧照禅師語録』からうかがわれます。歴代の禅の指導者の説話を記録した語録は各時代に多く残されていますが、その中でもこの『臨済録』は「語録の王」と称されるものです。
言葉を尽くして親切に仏法を説くのも大切でありますが、棒で打ち据えたり大声で一喝することによって修行僧の持っている不要なものを奪ってしまうという一見荒々しい手法も、実は親切極まりない禅師の教えといえましょう。修行僧は命がけで師に参じます。それに師も命がけで答えていらっしゃるのです。
臨済禅師を宗祖とする臨済宗は中国で発展し、のちに日本に伝えられた禅宗のひとつであり、坐禅・参禅・作務などの日々の修行を通じて、本来より我々にそなわる仏性を自覚すること(見性)を宗旨としています。お釈迦様の教えを受け継がれた初祖菩提達磨大師(ぼだいだるまだいし)によって5世紀後半にインドから中国に伝わりましたが、唐の時代に活躍された臨済義玄禅師を宗祖として大いに発展しました。
その後、中国(宋)で学ばれた栄西禅師が京都に建仁寺を建立され、鎌倉時代の日本に臨済宗を開かれました。日本の臨済宗は、江戸時代の中興の祖・白隠慧鶴禅師を経て大いに栄えました。現在は祖師方の禅風や師弟関係により14派の本山に分かれています。
正応四年(1291)、亀山天皇が無関普門(むかんふもん)禅師(大明〔だいみん〕国師)に帰依され、離宮を改め禅林禅寺とされました。のちに瑞龍山太平興国南禅禅寺の勅額を賜わり、南禅寺と改称しています。
以後京都五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)の上に置かれる禅宗最高位の格式を誇り、また十方住持制(自派に限らず他派からも住職を選ぶ)により、器量によって住職が選ばれた為、寺運は大いに栄えました。しかし室町後期には応仁の乱によって殆どの伽藍を焼失しました。
中興金地院崇伝(こんちいんすうでん)は、徳川家康に請われて幕府の基礎づくりに腕をふるい、また南禅寺復興の為にも力を尽しました。
当寺には、枯山水「虎の子渡し」、特別名勝「金地院鶴亀の庭」、国宝の方丈「清涼殿」、狩野派の襖絵等、すぐれた庭園・建造物・美術品が残されています。
【曹洞宗(禅宗)】
8歳で母と死別し、世の無常を感じて比叡山横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)千光房で出家されました。その後京都建仁寺で修行され、24歳で中国に渡り天童山の如浄禅師について修行し、悟りを開かれて釈迦牟尼仏より51代目の法灯を継ぎ、28歳のときに帰朝されました。帰朝後京都の建仁寺に入られ、その後宇治の興聖寺を開創されました。
その後、信徒の一人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより越前国志比庄に赴き、寛元2年(1244)に永平寺を建立しました。
道元禅師が32歳から示寂の54歳までの23年間に、弟子や大衆に説した教えを集めた主著を『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』といいます。現在では87巻に整理されており、日本曹洞宗の最も重要な根本教典です。
寛元元年(1243)鎌倉幕府の六波羅探題波多野義重公のすすめにより、越前国志比の庄吉峰寺に弟子懐弉禅師(永平寺2世)等とともに移られました。
翌2年、大仏寺を建立、これを永平寺と改称し、のちに山号を吉祥山に改めて、ここに真実の仏弟子を育てる道場が開かれました。
以来、御開山道元禅師が説き示された禅の仏法は脈々と相承護持され、今では全国に1万5千の末寺、檀信徒は800万人といわれております。
【日蓮宗・法華宗・本門佛立宗】
幼くして名刹清澄寺にて行学にいそしみ、16歳にして得度。名を蓮長と改め、鎌倉や比叡山延暦寺を中心として京都・奈良の諸大寺で修学されました。32歳で故郷に帰り、清澄山旭ヶ森にて、大日輪今まさに天地暗黒を破って立ち昇らんとする時、天地に向かい、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えて立教を宣言、名を日蓮と改めました。
鎌倉等の街頭にて辻説法を続けて法華経を弘通(ぐずう)*し、打ち続く天変地異・飢饉疫病に対しては『立正安国論』を幕府に献上しました。その後は草庵の焼き討ち、伊豆・佐渡流罪など幾度の法難に遭いながらも、「釈尊滅後、苦悩困難に直面している末法の今、法華経によってこそ仏教の救いがもたらされる」と揺らぐことなく布教を続けられました。
晩年は身延山(みのぶさん・山梨県)へ入山、弟子信者の教導につとめ、弘安5年(1282)10月13日、池上(現在の東京都大田区)にて御入滅されました。
文永11年(1274)春、宗祖は佐渡流罪をゆるされ鎌倉に還られましたが、法華経へ信仰を改めよとの幕府への説得も受け入れられないことを知って、その年5月17日、甲州(現在の山梨県)波木井(はきい)の領主・南部実長(なんぶさねなが)公の請いを受けて身延山に隠栖(いんせい)されたのが創始であります。
身延山の大本堂は日蓮宗の総本堂で、世の日蓮宗寺院の中心となる根本殿堂という事ができます。古来からの伝統の様式に則って再建され、重要な所は身延山の木材をふんだんに使いながら現代建築技術の粋を集めて、昭和50年宗祖第七百遠忌を迎えるに当たり完成しました。境内には大本堂を始め祖師堂、仏殿、御真骨堂、納牌堂、新旧書院、大客殿、法喜堂があり、本堂地下には宝物館等、少し離れて御廟所があります。山上の奥の院へはロープウェイで参詣でき、身延山の鬼門に位置する七面山(しちめんざん)には七面大明神が祀られ、徳川家康公の側室お万の方が山道を造られた、風光明媚な信仰の山です。
*開闢…信仰の地として山を開き、寺院を開くこと
現在の本堂は昭和3年に落慶入佛を迎えました。以上のように本能寺の歴史はとりも直さず再建・復興の歴史と言っても言い過ぎではない程の御難に遭っています。その歴史の中にも、常に本能寺は庶民信仰の中核として、また市民の心の安らぐ聖域として現在に至っています。
その後、応仁元年(1467)に戦乱を避けて丹波亀山(現在の京都府亀岡市)に移り、再び京都へ帰り元禄7年(1694)京都御前通一条の比叡山横川の末寺であった宥清寺を求めて青柳山宥清寺とし、妙蓮寺(京都市上京区、本門法華宗大本山)の末寺となりました。
佛立開導日扇聖人(にっせん、1817-1890)が追分の第一回御法難のあと明治2年に宥清寺にお入りになり、ここを佛立講の根本道場と定めて布教に当たられてから、寺門はすこぶる興隆しました。昭和16年、佛立講に属する寺院教会を門末として独立本山となり、昭和21年、門末と共に本門佛立宗を組織してその唯一の本山となりました。
宝蔵には旧宥清寺の御宝前が御安置され、その中央に位置する三宝尊像の宝塔中に刻まれる「南無妙法蓮華経」の文字は宗祖御真筆を直弟日法聖人が謹刻されたもので、元旦会に於いてのみ御開扉申し上げています。
*十八中老…日蓮聖人の直弟子のうち、高弟6人(六老僧)に次ぐ格の18人の弟子のこと